僕らは「ファシリテーター」に何を求めてるんだろう?
こんばんは! 菅谷です。
この記事は、「ファシリテーター」をテーマにブログを書くファシリテーター Advent Calendar 2015に参加しています。
誘ってくださったサトシさんとは、タイワハウスでの出会いだったでしょうか。
円坐、一度ご一緒したいです(社交辞令でなく)。
さて
このアドベントカレンダーにお誘いをいただいたとき思ったのは正直「僕が書いていいのかな」ということでした。
なぜなら、僕自身は「ファシリテーター」と名乗ることに抵抗を感じているからです。
はたして「ファシリテーターに関する知見を共有するアドベントカレンダーです」という今回の呼びかけに応えられるのか。
結構迷ったのですが、自分自身の「ファシリテーター」への抵抗感を紐解くことで、「ファシリテーター」に関するなにがしかの知見の共有になればいいかなと思って書きます。
僕と「ファシリテーター」との出会いは、いま思えば「カウンセリング」でした。
心理学を専攻していた学部時代に読んだ
有斐閣新書『ロジャーズ クライエント中心療法』の中で、「促進者」の右に「ファシリテーター」とルビが振られていました。
それから学校の先生になり、授業をなんとかしたいという思いから大学院に進学、開発教育や参加型学習の文脈で改めて「ファシリテーター」と出会います。
その後、ワークショップデザインやラボラトリーメソッド、ホールシステムアプローチを中心にファシリテーションを学び、地域や教育や会社で「ファシリテーター」のようなことをやっています。
そんな僕が「ファシリテーター」と名乗ることに抵抗を感じるのは、「ファシリテーター」という言葉が、目の前の人やグループにどんな影響を与えるかが未知数だからかな、と分析しています。
「ファシリテーター」と名乗ることで、目の前の話し合いの参加者や講座の受講者にどんなイメージを与えるのか。
人によっては、「会議をばりばり仕切る人」と思うかもしれません。
人によっては、「ファシリテーターって何だ?」と思うかもしれません。
人によっては、「じっくり話を聴いてくれる人」だと思うかもしれません。
人によっては、「ワークショップの司会」だと思うかもしれません。
人によっては、「どんどんホワイトボードにまとめる人」だと思うかもしれません。
「ファシリテーター」は、「促進者」。
何も対象は、話し合いやワークショップなどの集団活動に限りません。
関節ファシリテーションが商標登録されていたり、茨城大学では食の安全ファシリテーターのカリキュラムが組まれていたり。
上の2つは極端な例かもしれませんが、「ファシリテーター」という言葉は、いろいろなところで使われています。
まったく知られていない状況ではないにしろ、それぞれの人の「ファシリテーター」との出会いに応じて、さまざまな理解をされている。
人によってイメージされる役割に差が大きい。
だから、僕が話し合いをデザインするとき「ファシリテーター」とは名乗りません。
「ファシリテーター」と名乗ることが、かえって場にマイナスに作用する可能性があると考えます。
- 「ファシリテーター」と名乗ることで、私たちは何を伝えたいのでしょうか?
- その場の「ファシリテーター」には、何が期待されているのでしょうか?
- 私たちは、「誰の」「何を」促進する「ファシリテーター」なのでしょうか?
「ファシリテーター」として場にあるときには、そんな問いを持ち続けたいと思います。
日々の対話の学びから。
またお会いしましょう!
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